なぜ福島に過敏なのか

2017年4月27日木曜日

なぜ福島に過敏なのか

大臣の失言から始まって、Twitterで「#東北で良かった」なるタグが流行った。

その裏にはある心理が隠されているように思う。





今村雅弘福島原発事故再生総括担当が、東日本大震災について「まだ東北で良かった」と述べたことについて問題視され、その日のうちに更迭が決まった。

その晩のマスコミでは、この失言を取り上げた。しかしすでに当の大臣は辞任を表明していたために振り上げた拳のおろしどころが見当たらなかったのか、今度はTwitterで「#東北で良かった」なるタグをつけ心に残る東北をアピールするつぶやきが続出し、トレンドにまでなった。


この今村大臣の失言は、東日本大震災で罹災した人にとっては無神経極まりない、心無い発言であり、ましてやそれが、復興担当大臣(福島原発事故再生総括担当)が述べるようなことは到底あってはならないものだ。

しかし、恐らく大震災で罹災した方や関係者「以外」の多くの人が、心中で思っていることでもあったのではないか。



同様のことは、1995年の阪神淡路大震災、2004年の新潟県中越大震災、2011年の長野県北部地震などのほか、1993年の奥尻島地震、2016年の熊本地震など、これまでの大災害時にも何度もあった。

これらの災害が起こった際に、「自分のところじゃなくてよかった」と思った人は大勢いるはずだ。

ニュースを見て「地震(津波)ひどかったね」と言い合う人々の言葉の裏には、「ここじゃなくてよかったね(お互い無事でよかったね)」という思いが見え隠れする。

それがなぜ今回は大騒ぎになるのかというと、その深層真理に東京電力管内に住む人々の思いが隠れているのではないかと思う。



通称フクイチ(福島第一原子力発電所)は東北電力管内にあるが、東京電力の発電所だ。

そもそも東電は、日本で唯一「自分の管内に原発を持たない電力会社」である。東電が原発を持たないわけではなく、他電力会社管内に原発を建設している会社なのだ。

むろんフクイチも一方的に建設されたわけはなく、当時の福島県庁による誘致活動もあり、正式な用地取得交渉を経て建設されたものではある。結果的に昭和46年(1971年)には営業運転が開始され、その後は首都圏の東電管内へと電力を供給し続けていた。

東日本大震災では様々な事象が起こり、結果としてメルトダウンを含む原発事故は起こった。

この時、今まで同様に関東に住む人達には、心の何処かで「東京じゃなくてよかった」という思いが胸をよぎったはずだ。ひどい話で、放射能を恐れて東京からも逃げ出し、九州などへ移住する人も多数見られた。

その後、ヒステリックな原発停止運動が起こり、日本は一時的に原子力発電に頼らない電力供給状態へと移行した。この間、原発廃止運動は起きたが、「東京の電力を他府県に頼るのはおかしい。東京に原発を作ろう」などという運動は(ごく一部では提唱されていたが)大きな波になることはなかったし、マスコミも積極的なキャンペーンを行うことなどなかった。



正直な所、原発は怖い。ましてやそれが自分たちの近くにあることはもっと怖い。

しかし電力は必要だし、実際に福島原発は東京の電力供給を長らく支えてきた。だからといって東京に原発建設などできないし、今後ほとぼりが冷めれば新潟県(東北電力管内)にある柏崎刈羽原子力発電所は再稼働する。

もちろんすべての人が東電の意思決定に関与できるわけではなく、原発を使うという意思決定に直接参加したわけでもない。しかし、現代日本人は電力に頼らない生活など不可能であり、そうした電力供給によって日々快適な生活を送れている事実は紛れもない事実だ。

東京に住む、ということはそれだけ社会インフラの整った都市に住むということであり、それを支える電力のうち原子力発電所については他府県に頼っているのだという事実も受け入れていると感じなければならない。

東京に住む人達は、それが心理的な負担になってのしかかっており、だからこそ今回の今村氏の失言についても、まるで自らの心の奥底を暴露されたかのようで都合が悪くなったためにあれほど大騒ぎしたのだ。

これが違うといい切れる人は、恐らく少ないのではないか。



昼間のTBS系情報番組「ひるおび」で、コメンテーターとして登場する田崎史郎氏がいみじくも次のような発言をしていた。

政治家は被災地に寄り添っているフリをしなきゃならない。でもフリすらできないで「良かった」と言ってしまう。これは言葉の使い方がなっていない。

これは真理だ。

しかも都合の悪いことに、この田崎氏の発言は政治家だけではなく東電管内に住んでいるすべての人の思いを代弁したものでもある。試しにこの言葉の「政治家」を「東京都民」に置き換えてみれば良い。

いっておくと、「東電管内に住んでいるけど自分はエコな新電力に切り替えてるから関係ない」などと言う人はもっと酷い。いまさら慌てて切り替えたところでフクシマの現状は何一つ変わらないし、これまでの半世紀ものあいだ、福島や新潟からの電力供給を受けていた事実はもみ消せない。

あれほど「フクシマの人と心は一つだ」などといいながら、日々の生活でフクシマを意識している人は相当減っているはずであり、実際マスコミの報道内容もそうなっている。ということは、殆どの人はそれを受け入れているということでもある。



今回、復興担当大臣の失言によって我々の真理が暴き出されようとしたため、慌ててそれを覆い隠そうとしているが、マスコミの報道やそれに対する人々の動きを含め、恐らく被災地の人々の目にはすべてが茶番と映り、かつ滑稽で仕方ないだろう。

我々日本人は、表面的な物事でごまかすこと無く、今後も子々孫々の代までこの原発事故という負の遺産に向き合い、その業を背負い続けなければならないのだ。

それは単純な言葉狩りで済む話でもないし、わかりやすい解決方法などもあるわけがない。








0 コメント :

コメントを投稿